『沈黙』論 「転びのポウロ」弱き男の強さと神の形





 2010年8月5日、チリのコピアポ鉱山が落盤し33名の作業員が地下700mの穴の中に閉じ込められるという事故が起こった。一時、生存は絶望的とまでされた33名は、事故から69日経った10月13日に奇跡的に全員救出された。救助を待つまでの間、彼らは穴の中で当然平穏な過ごし方をしていたわけではない。高温多湿というだけでなく、食料や物資は限られ、いつ救助が来るかも分からないという劣悪な環境の中、33人の心身は極限状態に近かった。そんな中、彼らの精神的支柱となったのが33人の内のひとりである「司祭」と呼ばれる男の存在だった。仲間内での喧嘩や、やり場のない彼らの不安を取り除くべく、「司祭」は一日に一度、全員で祈りの時間を設けることを提案し、再び作業員たちの心に結束と安寧をもたらすことに成功した。地下700mのじめじめした薄暗い土の中で、弱りきり、心の安寧を失った人々が信仰の力で再度強く結束した。このとき、彼らの心の中に間違いなく神は存在し、そして彼らに働きかけたのだと私は感じている。私はキリスト者ではないが、このチリの落盤事故での出来事は神の存在や信仰の持てる力について考えさせられるひとつのきっかけになった。遠藤周作の『沈黙』において私が最も強く感じたメッセージは「神は存在する、どんな形であれ」ということだ。当初、遠藤本人がこの小説の題名にしようとしていた「神の存在」というキーワードと第2バチカン公会議で取り決められた方針のひとつ「文化内開花」のふたつをテーマにこのレポートを進めていきたいと考えている。

 『沈黙』という小説は言ってしまえば「キリスト教を棄てた弱い男の物語」である。また代表作『深い河』でも遠藤周作は大津という「出来損ないの」神父にひとつの焦点を当てて描いている。遠藤はなぜ、これら弱い男ロドリゴや出来損ないの神父大津の惨めで薄汚れた人生にスポットライトを当てるのだろう。新約聖書コリントの使徒への手紙二の12章にある「『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』・・・中略・・・私は弱いときにこそ強いからです。」という言葉がこれを解く鍵になると考える。ロドリゴに対して神が沈黙を破ったのは、彼が愛するその顔を踏むまさにそのときだった。キリストの顔を踏む、つまりキリスト教を棄てた時にその顔は雄弁に彼に語りかけた。「踏むがいい」キリストは、殉教者や殉教すらできなかった棄教者ロドリゴの痛みを分かち合おうとしていた。これまでキリスト教会では棄教した者のことを、信仰を守り通せなかった弱いものとし、それについて多くを語らず「黙殺的な態度」を取ってきた。しかし遠藤自身は著書『切支丹の里』の中で「・・・だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。・・・中略・・・彼らが転んだあとも、ひたすら歪んだ指を合わせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。」と語っている。信仰を棄てることしかできなかった弱き彼らにスポットライトを当てることで遠藤は彼らを「灰の中から生き返らせ」たのだ。逆説的だが、キリスト教を棄てた弱き者ロドリゴは強い、と私は考える。また薄汚いボロを纏った神父の出来損ないの大津のことも、いったい誰が彼を弱い人間だと言えよう。弱き者の中にこそ生まれる強さ、それこそが信仰の力であり、神の存在のなによりの証であるのだ。

 次に、冒頭で述べた「神は存在する、どんな形であれ」の後半部に触れていきたい。遠藤作品に共通するテーマのひとつに、「日本におけるキリスト教のあり方」というものがある。善悪をきっぱりと分け二元論的なヨーロッパ育ちのキリスト教がいかにして、汎神論的な価値観を持つ日本で根付き得るのか、また根付いて来たのかという点だ。先出の大津の愛読書であるマハトマ・ガンジーの語録から引用するならば「同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうと構わないではないか」という言葉。異端的考えだとさえ指摘されながらも、遠藤がキリスト教文学者として追い求めたテーマはこれに凝縮されているのではないだろうか。著書『私にとって神とは』を読むと遠藤はキリスト教におけるキリスト、仏教における仏、また愛そのものも同じ「働き」のことだと考えているということが分かる。「神とは自分の中にある働きだ」とはっきり述べている。また大津のいう「玉ねぎ」もこれに当たるだろう。遠藤は大津の口を借りてこう言っている「・・・でも結局は、玉ねぎがヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教の中にも、仏教の中にも、生きておられると思うからです。・・・」ロドリゴは確かにキリスト教を棄てた。しかし彼は決して神への愛、信仰は失わなかった。神を棄てた者にさえ、神は手を差し伸べる。「どんな形であれ」それは存在するのだから。遠藤周作にとって神は対象でなく愛そのものであり、自分の心の中にある「働き」であるからだ。