さきほど同居人(18)と本気の喧嘩をしました。

本日も、私の若気は絶好調で至っています。

 
 
 
きっかけは夕食の席での私の一言でした。
「せっかくイタリアに留学しに来ているのだから、家でもなるべくイタリア語を使ってみない?」
 
 
 私は現在、ドイツから来た18歳の女の子と一緒に暮らしています。寝室はそれぞれに与えられていますが、キッチンとバスルームは共同で、朝昼晩、ほぼ毎日彼女と食事を共にしています。実は彼女はイタリア語のビギナーで、最近は目覚ましく進歩していますがここへ来た当初は「こんにちは」もろくに言えないほどでした。そんな私たちは普段、家で英語を使ってコミュニケーションを取っています。
 
ドイツ出身とはいえ、イギリス人にイギリス人と間違われるほど彼女はとても綺麗な英語を話しますし、私も大学では英語を専攻しているので最低限の会話には困りません。
 
ということなので、私たちのコミュニケーションは必然的に英語で行われることになるのです。
 
 
 実はこのことはここへ来てからの私の悩みでもありました。午後1時までのイタリア語の授業が終わると、家にいる限り寝るまでずーーーーっと英語だけを話すことになります。同居人も同居人で、全くイタリア語を話そうとせず、せっかく留学に来ているのに学校以外の場所でイタリア語を使う機会がほとんどないことに私は強い不満を感じていました。
 
こんなにもったいなくてばかばかしいこと、耐えられません。
 
 だから昼間はなるべく外に出て公園のおじいさんとお喋りしたり、お店では暇そうな店員さんを捕まえてあれこれ質問してみたり、スーパーで他のお客さんに話しかけたりしています。自分から機会を掴みにいかない限り、だれもお世話してくれないからです。
 
「せっかくイタリアに留学しに来ているのだから、家でもなるべくイタリア語を使ってみない?」
さきほどの私の言葉にはこのような背景があるのです。
 
 
 外国語を学ぶのに完璧はどこにもないと思います。私の通う大学の前学科長は教授になられて数十年たった現在でも毎朝英字新聞に目を通し、知らない語彙やイディオムを覚える努力を怠らない方です。不完全のままながらも完璧を半永久的に求め続けるのが外国語学習の面白いところでもあると思います。
 
 ところで、私が普段話すイタリア語は現在形と過去形がほんの少し。英文法で例えると中学2年生程度だと思います。語彙で言ったら間違いなく中1以下でしょう。それでも実際に自分が現役の中学生で英語を学んでいたときに、自分は英語が話せるとは全く思っていませんでした。最近気が付いたのは、外国語を「話せる・話せない」ではなくて「話そうと思うか・思わないか」ということがより重要だということでした。
 
 だからこそ、このままずっと家で英語しか話さないのはお互いのために良い訳がないのです。片言でも、間違えるのが恥ずかしくても、知っている言葉から片っ端に使ってみることが言語習得の早道だからです。
 
というか、「間違えて恥ずかしい」とか「通じなくてもどかしい」とか、
そういう類いの苦しさを乗り越えないと外国語の習得は、はっきり言って不可能。
 
 だから、「私は流暢に話せない。ボキャブラリーもほとんどない。私はまだmangiare (食べる)とかCome stai?(元気ですか?)とかしか知らないのに、あなたとイタリア語でコミュニケーションなんか取れるわけがない。」という彼女の訴えにはどこか甘えがあるのではないかと思っていました。
そんなの、私だって、英語の方が楽に決まってんじゃん。

 ここへ来た2週間前に比べて、彼女も私も少しずつ進歩していると思います。
朝の通学路で「前に比べてだいぶ進歩した!」といつも誇らしそうに私に話していたのはなんだったのか。
 
あまりに自信に欠けた彼女の言葉にがっかりしてしまったのです。
せっかく少しずつイタリア語を使う機会が増えて来たと思っていたのに。
なぜ完璧になるまで話そうとしないのか。あなたの完璧はいつ来るのか。
 
 
 
わたし、間違ったことは言ってないと思うのですが・・・
 
 
 
 
 
イタリアからは以上です。