議論とケンカ(滞在1ヶ月目の報告)

同居人と1ヶ月一緒に過ごして来て、疑問に思うことがたくさん出て来ました。

 
・なぜいつも私の意見の否定ばかりするのか
・なぜ真剣な話題になるといつも眉間に皺をよせるのか
・なぜ頻繁にケンカをふっかけてくるのか
 
 
さて、話は今月24日に遡ります。
おなじみ同居人(ドイツ人18歳女)と2人で、シエナの近郊都市ルッカに行ってまいりました。
ローマのコロッセオピサの斜塔みたいに目立つものはあまりないけど、
花と緑と教会にあふれる、とてもゆったりとした素敵なところでした。
 
私の住む街シエナからルッカまでは鈍行をのりついで片道3時間、往復6時間かかります。
ここでの滞在時間も実質6時間弱だったので、下手したら観光している時間より電車に乗っている時間の方が長いほどでした。
 
他愛のない電車での雑談も、6時間を超えると何かしらの発見を生むみたいです。
ルッカの街そのものについても話したいことはたくさんあるのですが(おすすめしてくれたT子ちゃん本当にありがとう〜)今日はルッカではなく、シエナ-ルッカ間の電車でのお話です。
 
いきさつは忘れましたが、日本とドイツ、お互いの国の少子化問題から転じ「将来結婚したい?子供はほしい?」という話題になりました。
 
私『ん〜私は一人っ子だったから、2人か3人いたら楽しそうだな〜』
 
同居人「Oh…no… 3人は絶対にやめた方がいい…」
 
へっ????
 
聞いたことあります?そんな意見・・・。理由を聞きます。
 
「たとえそれが兄弟間であっても、3人という数では必ずゆがみが生じて、2人と1人になっちゃうの。3人がお互いを平等に扱うことは不可能だし、はじき出された1人は将来的に、人間関係で少なからず深刻な問題を抱えることになる。3人の中のはじき出された一人が可哀想だし、家庭内にそのような問題が生じるのは望ましくない。だから3人子供を産むのは絶対に辞めた方がいい。」
 
『深刻な問題!!?? いやいや、そんなことはないでしょう。わたしの知ってる3人兄弟はみんな楽しそうにやってるよ。それにこの世の全ての3人兄弟がそんなネガティブで繊細な訳がない。少なくとも、私が3人産むとしたら自分の子供達をそのようには育てない!』
 
「はぁ・・・(大きいため息)なつほは全然分かってないよ。それは、これこれこういうわけで・・・」
 
と、彼女が3人兄弟を勧めない理由が永遠に続くわけです。話を聞きながら身近な3人兄弟の顔が次々に頭に浮かんで、彼らの生まれを否定されたような気がしてやたら腹が立ってきます。これはいかん、と。このまま続けたらまた前みたいなケンカになると思い、大人げなくも「ハイハイ、そんなに言うならじゃあ私は4人産むわ!それでオッケーなんでしょ!」と返してその話題を終わらせました。同居人のため息は不可避でしたが。
 
そしてしばらく沈黙が続き、彼女が一言こぼします。
 
 
「こういう議論ってほんと楽しいよね〜。いつも熱くなっちゃう。」
 
 
・・・ええ!?楽しんでたって!?怒ってたんじゃないの!?
てっきりケンカが始まると思ってはらはらしていた私を尻目に、彼女はこのやりとりを楽しいと感じていたようです。
 
『正直、私はちょっと困ってたよ。下手したらまたケンカになるんじゃないかって思ってた。笑  21年生きてきて3人兄弟が精神衛生上よろしくないって言う意見自体そもそも理解できなかったし、なんでそんなに強く否定されるのか分からなかったし、あなたが怒っている理由もよく分からなかった。』
 
「NOOOO!! そんな風に思ってたの!?だとしたらほんとにごめん!全然怒ってないよ、真剣に考えてただけ!ただこういう真剣な議論を友達とするのがすきなだけなの!だってお互いが " I agree!"  " Me too, I agree!"  の会話なんて面白くないでしょう?」
 
『ん〜、日本にはね、"和を以て尊しとなす"という教えがあって、協調と調和を重んじる文化があるの。相手の意見を打ち負かすディベートや議論よりも、協調性をもって何かを行う方が長けてるのよ。』
 
と、自分がまともに言い返せないことの言い訳のつもりでしたが
彼女に説明しながらあ〜〜〜〜!なるほど・・・!と脳内のアハ体験が止まりません。
 
同居人の言い分を聞いたとたん、「まじ分かるぅ〜」「だよねぇ〜」「それな !」という聞き慣れた日本の若者コトバが頭をよぎったのです。
 
 "I agree!" "Me too, I agree!" って・・・まさにこれじゃん。
 
日本人は無意識のうちに相手の意見に同調しながら会話を進めてるのだと気がついたのです。
というのと、
自分が思っていた以上に自分は日本人らしい日本人だったことに気付き、驚きさえしました。
 
自意識過剰の、恥ずかしいことを言います。
 
中学では英語の弁論大会で全国大会に出場し、「国際」という名のつく県立高校で充実した思春期を過ごし、大学では外国語学部で国際政治を学び、海外の友人もたくさんいて、これまでに5つの外国語を学んで・・・自分はいわゆる「日本人日本人」した人間ではないのかなと、偏狭ながら、恥ずかしながら、思っていました。
 
日本の友達と話をする時も「まじ分かるぅ〜」とか「それな!」などの言葉を避けてきました。
みんなが使っている若者のはやりコトバが好きじゃなくて。
 
これまで多くの事柄について「人と同じじゃいやだ」派の私でしたし、なんでもかんでも人に同調するようなことは避けていたつもりでした。しかし、相手に共感し同調することで話を進めるという、極めて日本的な文化の中で育って来た(と今回分かった)ので、"NO" である理由を非常に論理的に(時に理屈っぽく)返されたことに混乱してしまったのです。言い換えるなら、相手から否定されることに免疫がついていなかったのです。
 
 
 
さて、ここで冒頭の3つの疑問に戻ります。
 
これまでの私の見方
【なぜいつも私の意見の否定ばかりするのか】
  →私と同居人は性格が正反対だから仕方ない(けどやたらむかつく)。
 
【なぜ真剣な話題になるといつも眉間に皺をよせるのか】
→私の意見に同意できず同居人は怒っている or 少なくとも話が通じずイライラしている。
 
【なぜ頻繁にケンカをふっかけてくるのか】
  →まったく理解不能(不快なのでやめてほしい)。
 
正解
【なぜいつも私の意見の否定ばかりするのか】
  →同居人からしたら強い否定でもなんでもない。
「和を以て尊しとなす」の中で育った私が、周りから同調されることに慣れすぎているだけだった。
 
【なぜ真剣な話題になるといつも眉間に皺をよせるのか】
→怒っているのではなく、彼女が真剣に考えている時の顔。
 
【なぜ頻繁にケンカをふっかけてくるのか】
  →幼稚なケンカではなくて、まともな議論。様々な話題について、
彼女の関心対象であるアジア人の私がどう考えているのか知りたいだけ。
 
 
 
 
 私が育った文化の中では「口は災いのもと」「嘘も方便」「空気を読む」など、本当のことをそのまま言うことが必ずしもいい結果を招くわけではないとする言葉がたくさんあります。
 
しかしこの常識が通用するのは、おそらく日本の中だけ。
少なくとも、私の同居人にとっては自分の意見をはっきりと主張しない私の態度は不快だったようです。
 
無理して相手に合わせたり言いたいことを我慢するより、180度違う意見だったとしても態度と言葉に出してそれを論理的に説明した方が相手にとって誠実さ、あるいは優しさを見せられることになるのです。そういう世界もあるのです。
 
彼女の「正解」が分かってから、毎日劇的に過ごしやすくなりました。
食器のすすぎ残しについてや、運動前の準備体操について、また互いの国での同性愛事情やドイツと日本の戦後教育の違いまで、あらゆるケンカ(改め議論)をふかっけられても、いまでは心に波風立てず「議論」をすることができます。
 
他人と一緒に生活すること自体初めてなのに、まして相手は初対面のドイツ人18歳。
日々の摩擦をストレスと捉えるか、脳みその成長痛と捉えるか。
8ヶ月後、今を振り返ったときに後悔しない解釈を取りたいと思います。
 
 
 
 
 
久々に書いたので力んじゃったみたいです。こっぱずかしくなったのでもう寝ます笑
 
おやすみなさい。